りんどうの会~がん患者遺族の会・佐賀~

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今、思い返して  

2016/03/17

平成23年1月28日午後7時20分
その時間に妻は息を引き取りました
病室には医師と看護師が
「まだ声は聞こえると思うので語りかけてください」
 
しかし、言葉も出なければ涙も出ませんでした
何故だったのだろうと、ずっと思っていました
昨夜、突然にその答えに至りました
 
医師と看護師が同席している病室で
言ってみれば他人の目の前では出来ない事だったのです
少しの時間でいいので、家族だけにしてもらっていれば
そこに居た僕と娘の言葉は妻に届いたと思います
 
マニュアル通りの対応かもしれませんが
病院関係者の方々にお願いしたい
 
最期の瞬間、看取りの瞬間
少しだけ見送るための家族の時間を作っていただきたい
最初の涙を流す時間を作って欲しい
それが家族、いいやもう遺族となった者への寄り添いです
 
心のある最期の時間が本当は欲しかった

全国中学生人権作文コンクルールから

2016/03/16

全国中学生人権作文コンクルールから

「佐賀県優秀作品」・「一般社団法人日本新聞協会会長賞」受賞作品

「生きる権利・死ぬ権利」 唐津市立浜玉中学校 1年 吉原 直さん

 

 「緩和ケア」

 私はこの言葉を6年生の春に初めて耳にしました。完治が望めない患者に対して、1日でも長く延命するよりも、その身体的な痛みや精神的な苦しみをできるだけ軽くすることを目的とした看護のことです。

 私の祖父は、1年前の6月、紫陽花の花が咲きほこるころ息を引き取りました。病名は「末期のすい臓ガン」で、一昨年の12月に告知を受け、半年間の闘病生活でした。祖父は病状が進んでもなお、入院はせず、祖母と二人で自宅で花や野菜を育てたり、愛犬を可愛がったり、長い間ずっと大切にしてきたものに囲まれながら穏やかに暮らしていました。私の祖母は、何年も前から体が悪く1人では立って歩けません。祖父が亡くなるギリギリまで自宅にいたのは、そんな祖母への気遣いもあったにちがいありません。

 祖父の最期は、緩和ケアという場所でした。ガンになるずっと以前から、自分の最期は緩和ケアだと決めていたそうです。

 祖父は入院してからわずか1週間で亡くなりました。入所した初日、病院へ持ち込んだアルバムの中から、

「これが一番よか顔ばしとる」

と遺影になる写真を自分で選び、初孫だった私に申し訳なさそうに、

「じいちゃんの葬式の最期のお別れの手紙ば読んでくれんね」

と頼んできたのです。私はまだその時、祖父が亡くなるとは全然思ってもみなかったので、よく理解できずにうなずくだけでした。

 それから毎日、学校から帰ると欠かさず祖父の病院にかけつけました。祖父は、

「おう、よく来てくれたね。学校は楽しかね」

と言って、ニコニコ笑っていました。私は、そんないつもと変わらない祖父の笑顔を見るのが好きでした。でもそれから、1日ごとに祖父の様子は変わっていきました。モルヒネという強い痛み止めの薬を使っていた祖父は、次第に日にちや曜日、場所、兄弟や家族、私たち孫のこともわからなくなりました。話もせず、ただぼんやりと過ごす時間が増えました。

 その数日後、私が病室に入り、

「おじいちゃん」

とゆっくり大きな声で呼びかけると、いつもの笑顔で手を差し出してくれました。やっぱり私のことを覚えていてくれたんだと思うと、嬉しくもあり、でも胸が張り裂けそうに悲しくもありました。それから3時間もたたないうちに、祖父は亡くなりました。

 冷たく固くなっていく祖父の体を祖母、母、おばさん、いとこたちとみんなでさすりながら、祖父を見送りました。母やおばさんたちは泣きながら、でも途中からは全員笑顔でした。痛く苦しい病気と闘っていた祖父がもう苦しまなくていいからだと安心したからです。

 祖父が選んだ「緩和ケア」という最期は、点滴や薬をほとんど使わず、心臓マッサージも人工呼吸器も輸血も行わないという方針です。祖父が入院してからも、祖母だけはずっと一人でこの方針に反対していました。病棟の先生、スタッフ、母、おばさんたちは祖母が納得するまで何度も説明や話を合いを重ねたそうです。とにかく延命優先を希望する祖母に対して、母やおばさんたちは、

「緩和ケアを最期の場所に選んだお父さんの意思を尊重してほしい」

と必死になって繰り返し主張したそうです。

 祖父が緩和ケアを望んだのには理由があります。以前ガンで亡くなった祖父の兄たちが最期までずっと点滴の管やチューブにつながれていたり、意識も反応もないのにただベットに横たわっているのを目の当たりにしたからです。祖父は、自分の足が動く間は、愛犬と散歩に出かけたり、一輪車いっぱいに野菜を収穫したり、気力がある間は自分で運転して私の発表会に来てくれたり、祖母の通院を手伝ったりしていました。

 入院してからも、絶対にトイレは自分の足で向かい、ナースコールを自分では一度も押さず、とにかく我慢強く、自分よりも周りを優先する人でした。そんな祖父だったからこそ、延命を望まなかったのだと思います。自分でできることは最期まで自分の力でがんばりたいという祖父らしい姿です。

 私は、祖父の生き方から、人が人として生きる意味を学びました。そして、人が人として死ぬ権利があることを学びました。人が人としてとは、その人の望むことだと思います。祖父のように自分の力でしっかり生き抜くことや、死ぬ場所や死に方を自分で選択し決定することが人権を尊重することにつながるはずです。祖父の意思を尊重し、守ろうと力を尽くしてくれた緩和ケアの方々にも、私は感謝しています。

 私も私らしく、精一杯毎日を生きて、祖父のように自分の意思をしっかり持てる人になりたいです。

お待ちしています

2016/03/05
初めての昼間の時間帯での開催でしたが
告知も広告も不十分だったこともあって
残念ながら、空振りに終わりました
 
ただ、空っぽの会議室の中で思ったことですが
この街の何処かで、グリーフケア・サロンを必要としている
そういった方が一人でもいる限りは
これからも、続けていきたいと感じていました
 
来月も、第1土曜日に開催しますので
ご希望の方は、お出かけください

今日のりんどうの会から

2016/02/18
サバイバーとケアギバーどっちが辛い・・・
この答えは出てこないと思います
 
サバイバーは自分自身の命をかけた戦いの中にいます
ケアギバーはその戦いをサポートしながら
代わってあげることのできないことに苦しんでいます
自分自身のことではないので、より一層辛く苦しいものがあります
 
残された者の辛さ
後悔と自責と悲しみの中でもがき苦しむ遺族の思い
それは、生きていることが間違っているのでは
とさえ思いたくなるような辛い時間です
 
生き残った悲しさ
死んでしまいたいと思ってしまうほどの悲しさを
経験しないで済むならそうありたい
 
尽きることのない、枯れることのない涙が
悲しみを流してくれるのなら
もっと泣いていればよかったのだろうかと
本当に毎日毎年泣いていたものです
 
そんな、悲しみをあなたには経験して欲しくない

遺族の振返り

2016/01/21
 
終末期鎮静の番組をテーマとした振返りが
昨夜の遺族会の中で行われました
「その時」を経験している方々の思いが強く胸を打ちます
いくつかご紹介します
 
私と妻にとっての「その時」は厳密に考えてみると
抗がん剤治療を停止して、あとは自然の成り行きに任せる
言ってみれば時限爆弾のスイッチを確実にONにした時でしょうか
やがてやってくる死を受け入れた時が「その時」だったのかもしれません。
 
妻の「普通の生活をしたい」とい願いを私は受け入れて、
治療をすることを放棄することに同意しました
実際の終末の時は、あっという間に過ぎて行きました
黄疸が始まったとおもったら一週間で旅たちました
 
その一週間はちょうど5年前
間も無く妻の5年目の命日を迎えます
 
自宅療養を続けられていた方は
いつも、痛い・苦しいと言われている声を聞きながら
なんとも出来ない状況であったのが辛かったが
最後の一日は、痛みを取ってもらって笑顔で旅たちました
と、言われていました
 
時期的には、まだ終末期鎮静は施術されていない頃ですから
モルヒネによる鎮痛であったと思いますが
20年以上前のことですので、しかとはわかりません
ただ、患者が苦しまないことが一番だったと言われていました
 
がんが判明して短期間で旅立たれた方は
一切の治療をしないで、このまま旅たつと言われてので
それまでの生活の中では、自分はわがままを言わなかったが
今回だけは、わがままを聞いて抗がん治療をして欲しい
一分でも一秒でも永く生きていて欲しいと願ったそうです
 
その言葉を受け入れて、治療のための準備を始めたのですが
レントゲン一つを撮るたびに苦しまれる姿を見ていて
ここまで苦しめることはできないと思い
「もういいよ」と治療を断念したことを涙ながらに語られました
 
また、別の方からは
番組の中でお姉さんの終末期鎮静をして、
罪悪感に泣いている妹さんの姿を見て
「あなたは正しい選択をしたんだよ」と言ってあげたい
患者さんはきっとあなたに感謝して旅だったはずだよ
 
その言葉には、サロンにいた皆さん方がうなづかれていました
 
サバイバーに辛い思いをさせてまで命をつなぐことは
それは家族のエゴだと思います
一番辛いのはサバイバーだと思いますが
残される遺族もまた、苦しい選択を常に強いられています
 
鎮静を選択しようが、最後まで戦うことを選択しようが
もっとしてあげれることはなかったのだろうかという
死後の後悔の念は、つきまとってきます
ただ、きっちり命と向き合って選択したこと
そのことでの結果にたいして罪悪感を持つことはないと思います
 
他にも、がん治療についてもいろんな意見が出ましたが
それは別の機会に書き込ませていただきます
 
最後に一つ、言いたいことは
緩和ケアの活用が日本は遅れているということです
 
日本では緩和ケアというと終末医療という意識が出ますが
本来なら、がんという診断が下った時から
緩和ケアを受けるべきではないかと思いました
 
私も緩和ケアの看護師さんから
「ここはご家族の心のケアもするんですよ」と言われて
涙が止まらないくらいに泣いたことを思い出しています
 
サバイバーやケアギバーの心のケア
がんと戦いながら、疲れていく心のケアをすることで
少しでも生きていることの喜びを感じて
「その時」を心静かに迎えることができればと・・・

終末期鎮静(テレビを見て)

2016/01/20
今夜のNHK番組
クローズアップ現代をご覧になりましたか?
今夜のテーマは、終末期鎮静
 
私はケアギバーを経験し、遺族になった者です
妻が治療しないことを選択し、緩和ケアで終末を迎えたことから
がんをどう生きるのか=どう死ぬのか(死に方=生き方)
といったテーマに関心があります
 
がんとの戦い方にもいろんな考え方があって
どれが正しいとか、どれがベストだということはないと思います
 
医療行為を受け続けて、最後まで治療を受けるのも選択肢です
治療ができなくなっても延命を続けていくことも選択肢です
医療行為をやめて、自然体で最後を迎えるのも選択肢です
その中に、終末期鎮静を受けるか受けないかも選択肢です
 
しかし、今夜の在宅ホスピス会長のコメントは
どう受け取っても、終末期鎮静に否定的なコメントでした
患者の選択肢を最初から潰している発言に聞こえました
 
果たしてそれは医師として適切な言葉でしょうか
 
ザバイバーやケアギバーにどれほどの医学知識があるでしょうか
患者や家族に、全ての情報を正しく伝えて
患者が希望する医療を施すことが医師の務めではないでしょうか
それを最初から否定的に捉えているのでは、
何のために終末期鎮静という医療行為がそこにあるのでしょうか
 
医師のコメントを聞いていると
「鎮静をした後で悩んだ」だからもうしない
「遺族が後悔している」だからしないほうが良い
これは、どちらも医師の自己弁護の世界です
 
自分が後悔したくない
あるいは、遺族から文句を言われたくない
そういった、自己弁護が働いたからの言葉だと感じました
患者の苦しみを本当に理解していないから言える言葉です
 
見つめる対象は、サバイバーです
治療の選択をする最終決定者も基本はサバイバーです
(意識がはっきりしているうちに決めるべきです)
サバイバーの方に本当に寄り添った治療と看護が
医療関係者にも家族にも求められていると感じています
 
話はそれるかもしれませんが
痛みを緩和するために医療用モルヒネを使うことにさえ
まだまだ、一般の方々には誤解による抵抗があります
そういったこと一つ一つを正しく伝えることを
がん治療に携わる医療関係者にはお願いしたいと思います

生き方の選択

2016/01/12
遺族=愛する人を亡くした人
この辛い経験から、がんの終末期をどのように迎えるのかといった話をすることがあります。
 
がんに罹患していることが判明すると、その治療方法が検討され、外科的な処置や、放射線、抗がん剤などの治療が行われます。
しかし転移があったり、再発したりと、悪い方向に向かっていった場合には最後の時を覚悟しなければならなくなってきます。
この時にあなたはどう考えますか?
 
私自身はサバイバーではないので、実際に命がかかっているサバイバーの方々のお気持ちを推し量ることはできませんが
ケアギバーとして、一緒になってその判断をした経験はあります
最後の時をどう過ごすのか
 
ケアギバーもまた、愛する人をなくすことの苦しみを抱え、その後に悲しみと後悔の念を持ち続けて生きていかなくてはなりません。
不謹慎な言葉かもしれませんが、「残された者」として生きて行かなければならない悲しみは、「死んだほうが楽かもしれない」という思いを抱かずにはおられないほど心を苦しめます。
 
それは終末を迎える時の判断や行動に対する後悔の念でもあります。
最後の最後まで諦めることなく治療を続けるのか
緩和ケアで痛み(体だけでなく心も)を和らげて、その時を待つのか
この大きく二つの終末期・・・あなたはどう考えられますか?
 
答えに正解はありません
十人十色、千差万別と人の数だけ答えがあると思います
ただ、私の経験から言えることは
サバイバーと一緒になって、そのことを考えて欲しいということです。
涙を流しながら、死を考える恐怖を乗り越えることです
 
死の選択は、生きることの選択です
 
人は必ず死を迎える時がきます
「早すぎる死」、「天寿を全うした死」、「突然の死」
形は違っても、死なない人はいません
でも、死が訪れるその瞬間まで、人は生きています
そして、がんでの終末は生き方が選択ができるのです
 
生き方の選択
 
私は、妻と真剣にこのことを話しました。
人として美味しい者を食べ、行きたいところに行きたい
身体を痛めつけながら結局は最後を迎えるなんて嫌だ
そういう妻の声を思いを受け止めて、最後まで寄り添うことを覚悟して
そして治療をやめました
 
そして死を迎えた時
悲しみは深く深く心の中にありましたが、後悔の念はあまりありませんでした
私が、遺族の多くに見られる「後悔」といった感情が希薄なのは、きっと妻と真剣に話し合った結果の「死」だったからだと思います。
 
私は、緩和ケアによって最後は本当に助けていただいたと感謝しています。でも、それは私の選択です。
一つだけ言えるのは
サバイバーの方の意識がはっきりしている時に、このことを真剣に話し合って頂きたいということです。

今年で4年目に入ることができました

2015/12/31
今年で4年目に入ることができました
これも、多くの方々から支えていただいた賜物と心より感謝申し上げます
来年は、もっと多くの方に知っていただき
悲しみを抱えた方々がこのサロンで少しでも心が軽くなることができればと願っています
 
これからも引き続き活動を続けてまいります
来年も、よろしくお願いします

りんどうの会は・・

2015/11/18

りんどうの会は「がん遺族の会」です

参加を希望されている方
参加を迷っておられる方

ご連絡をください

ここには、
あなたの悲しみを分け合う仲間がいます
あなたの涙を理解している仲間がいます

一人で悲しまないでください

ここには貴方の座る椅子があります
ここには貴方を待っている人がいます

私も貴方を待っています

今夜のりんどうの会

2015/10/21

 

今夜のりんどうの会に

鹿児島で遺族会を主催されている椎屋さんが参加してくれました

ありがとうございます。

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