2017年11月
11月, 2017年
曽於市に行って来ました
2017/11/25鹿児島県曽於市にある
曽於市医師会立病院で開催された
グリーフケアの会「コスモス会」に
オブザーバーとして参加してきました
これは、がんサポートかごしまの遺族サロン
「ほんわか」(座長・椎屋美穂子さん)の活動に
同行させていただいたものです
この病院では、これまで患者会や家族会の開催はされていたそうですが
今回初めて遺族会を開催するということで
がんサポートかごしまからの派遣が行われたものです
遺族の方と看護師の方々と前後合わせて2時間ほどの会でした
りんどうの会とは違って、看取りがあった病院単位の遺族会では
闘病期間中の話も出てきます患者さんが家族には直接言えなかった話などもあって
遺族の方が、「来て良かった」という一幕もありました
参加させていただいて、ありがとうございました
リレーフォーライフ2017佐賀・ルミナリエ点灯式
2017/11/15リレーフォーライフ2017佐賀・ルミナリエ点灯式
2017(平成29)年9月23日(土)
会場にお集まりの皆様、こんばんは。
佐賀市内で開催しています「グリーフケアサロンりんどうの会・がん遺族の会佐賀」の、
会員のMと申します。
今日は、この会場にお集まりの皆様の代表として、ルミナリエ点灯に先立って、私たちの愛する人へ、メッセージを読ませて頂きます。
私の唯一の家族である私の妻は、4年前に消化器系のがん「スキルス胃がん」で旅立ちました。
祖父、祖母、父、母、兄弟、姉妹、
パートナー、子供、恋人、親戚、友人、知人、
愛する人との関係は違っても、
愛する人が旅立たれていても、
今、がんと向き合われていても、
私たちの愛する人への想いは、皆同じです。
これから私が語りかける言葉の中に、「我が愛しい人よ」、と、語りかける部分があります。
どうか、「皆様が、皆様の愛しい人に語りかけているのだ」、と、感じて頂ければ幸いです。 それでは
よろしくお願いいたします。
我が愛しい人よ
たとえ、今この目に見えずともこの耳に聞こえずとも
あなたが、私の傍にいつも いて下さることを知っています
そして、あなたの愛の力で私を守り、導いて下さっていることを知っています
我が愛しい人よ
あなたが経験された病がどんなに理不尽なことに思えても
どんなに辛く苦しいことに思えても
その病はあなたと私が何か過ちを犯したから生じたのではなく
あなたと私が真実の愛を体験し、実践するためにあったことを知っています
そして、今肉体の重みから解き放たれたあなたが
光り輝く世界の、更なる高みに向かって歩み続けられていることを知っています
我が愛しい人よ
これからの私の人生が家族がなく一人で生きるとしても
新たな家族と共に生きるとしてもあなたへの私の愛は変わりません
そして、私へのあなたの愛が変わらないことも
知っています
我が愛しい人よ
どうか、今宵一晩私たちと共にこの地で過ごしこの地を愛の力で満たしてください
そして、この地に集うことなく人知れず、今 病と向き合われている方々を
離別の悲しみと向き合われている方々を愛の力で包み、導いてください
我が愛しい人よ
かけがえのない人生をありがとう
皆様、ルミナリエに点灯したいと思います。
ルミナリエ 点灯
佐賀新聞に掲載されました
2017/11/1415日(明後日)のサロンを紹介して頂きました。
五周年記念講演から(第9回)
2017/11/10第9回 グリーフケア資料 (最終回)
グリーフケア(悲嘆回復)について
それは、死別を経験した遺族の悲しみからの回復
死別で失うのは、自分の命ではありませんが、失った命は共に生きてきた証であり安心・安全なよりどころだったのです。故人と遺族はお互いの人生の中で生活を共有してきていました。大切な人を失った生活では、新しい生活を見いだすことができずに、人生の目標を失ってしまうこともあります。
悲嘆の一般的な経過
- 感覚麻痺の時期・・・死別の事実を受け入れたくないという感情が出ることもある
- 思慕・探索期・・・・故人の面影を追い求める。ゆかりの場所に行ってみたくなる
- 落ち込み・抑うつ期・疎外感を感じて、身体的・精神的にも悪化が起こりやすくなる
- 回復期・・・・・・・現状認識が進み故人を忘れるのではなく、不在に慣れてくる
死別悲嘆に対する援助のあり方
- 情報的な援助・・死別悲嘆で起こりうる反応を遺族に情報として伝え、死別悲嘆が普通に遺族に起こる正常な反応であることを理解するきっかけを提供する。
- 情緒的な援助・・悩みを聞きとる姿勢、共感性を持つ姿勢、優しい働きかけや、歩み寄りを促す姿勢が必要
- 道具的な援助・・死別による生活環境の変化のために、日常生活を行う中で困ったことに対する援助
- 治療的な援助・・死別悲嘆からくる健康障害や精神障害に対する医療機関による援助
悲嘆回復への対応での注意点
良き聴き手に徹する(傾聴)
遺族の心は良き聴き手を望んでいます。言いたい思いに心は満ち溢れているのに、誰にでも話せるものでもなく、ふさわしい聴き手に聴いてもらえる機会を待ち望んでいます。
注意したい言動とは
- 励ましや激励・・・・特に「頑張ってくださいね」は禁句。安易な励ましはしない
- 悲しみの比較・・・・悲しみは主観的なもので個人で異なる。比べることはできない
- 経験の押し売り・・・第三者的な経験上のアドバイスは、マイナス効果になりやすい
- 気休め的な同意・・・安易な同意には誠意の心がこもらないことが多いので要注意
- 叱咤する、制止する・「もう泣かないで」「いつまで悲しんでるの」は相手を傷つける
- 返答に詰まったら・・話をちゃんと聴いているという意思をしっかりと伝える
- 自分勝手な判断・・・悲嘆回復の通説・俗説には間違いも多いので軽々しく使わない
- 知識の誤引用・・・・悲嘆自伝や欧米の学説などが当てはまるとは限らない
- 宗教観の押し付け・・不幸につけこむ詐欺師や扇動者の存在に要注意
- 目的の再確認・・・・相手が感情を余すことなく打ち明けられる心境を保つこと
- 話の腰を折る・・・・語りかけ、説明する立場の人(例:医師・僧侶・教師等)に見られがちな行動。聴き手が話をリードすると遺族は話づらくなる
五周年記念講演から(第8回)
2017/11/05第8回 (体験談 RFさん)
妻が大腸ガンで亡くなったのは平成23年1月末、59歳でした。もう二度と逢うことのできない寂しさ、電気もついていない真っ暗な家、暖房など効いてない冷たい家、ただいまと言っても返事のない誰も私を待っていない家に帰ってくるのがとても辛く、その辛さから逃げるようにお酒に溺れる日々でした。
また、妻の死を知らない方から「奥様お元気ですか」と声をかけられて、「亡くなりました」と答えた時。街中で妻によく似た人を見かけた時。妻が喜びそうな話題に触れて、早く帰って話してあげたいと思った時に「もういないんだ」という現実に引き戻され、心が傷んだものでした。
そんな時に、がん遺族の会を立ち上げませんかと声をかけてもらったのが、りんどうの会を立ち上げるきっかけでした。
妻のガンが見つかってから3年2ヶ月を、様々な思いを抱えながら、共に歩きました。悔しいことや、疑問に思ったことなどいろんな場面に遭遇しましたが、一番大きな決断を迫られたのは、抗がん剤治療を止めるという妻の申し出を受け止める時でした。抗がん剤治療を止めるということは、死が現実のものとして迫ってきます。死を受け入れる覚悟が求められます。
でも妻は、抗がん剤の副作用で、脱毛や指先の荒れに加えて、味覚障害を起こしていました。嗅覚は正常でしたので、香りは美味しく感じるのに、口に入れた瞬間にそれは灰色の物体に変化して味がしないどころが、そのザラザラとした感触が辛かったと言っていました。
そのような時、別の治療で通っていた病院の院長から、「このまま抗がん剤を続けてインフルエンザで死ぬか、治療をやめてガンで死ぬか、人は結局死ぬんだから」という話を聞いて、「人はいつか死ぬ」ということに改めて気づかされました。
人はいつか死ぬ、そうであれば人として生ききって、美味しいものを美味しいと感じる暮らしがしたい、普通の暮らしの中で最後を迎えたいという妻の願いを受け入れることにしました。
死ぬことの選択は、生きることの選択。そう言った思いに行き着くまで、何回も妻と話をしました。
そして、抗がん剤治療をやめる決心をしました。最後の抗がん剤治療を受けたその日から322日目に妻は帰らぬ旅に逝きました。
それでも、抗がん剤をやめたことで妻は元気になりました。東京、京都と子供達の所に行くこともできました。夏には私と旅行にも行きました。妻の父親の白寿のお祝いでカラオケも披露しました。周りの人たちは、妻のがんは治ったものと思われていたようです。
妻が望んだ生活がそこにはあったのでしょうか。
最後の旅行の時に妻がポツリと言った言葉
「私はあなたによって生かされる」
その時は意味もわからず、聞き返すこともできずにいましたが、時が経つにつれて、おぼろげにわかるような気がしています。
秋も終わる頃から徐々に体調が悪化して行き、腫瘍マーカーも数値も徐々にあがっていき、一日のほとんどを毛布に包まって横になっていました。そして緩和ケア科に入院することになりました。
緩和ケア科に入院すると妻は一時的には元気を取り戻し、春には退院したいねと言っていたくらいです。
その緩和ケア科で看護師の方からかけていただいた言葉は本当に暖かく嬉しいものでした。
それは、亡くなる数日前のこと。家族を呼ぶようにと言われて病室を後にした時に、「緩和ケアは患者さんだけでなく家族の方の心のケアもするのですよ、辛い時は声をかけてください」と言ってくださいました。堪えていた涙が溢れ出してしまいました。持って行きようのない辛い心を慰めてくれました。その数日後に妻は亡くなりました。
悲しさと寂しさが一気に押し寄せてきたのは、葬儀も終わって、親戚も家族もそれぞれの生活に帰った後、一人自宅に残されたとき、もう絶対に帰って来ることのない現実をつきつけられたとき、白い布に包まれて祭壇に安置された遺骨と写真を見つめながら一人ぼっちな自分を感じた時に、言いようのない絶望感と悲しさが溢れてきました。
冒頭にも言いましたが、毎日毎日がお酒に頼る日々でした。それでも昼間に仕事がないときは、よくドライブに行きました。決まって九重・阿蘇方面です。山道を走りながら、もしかして天国に向かう道が現れたら、迷うことなくそっちにハンドルを切りたいと願ったことも1度や2度ではありませんでした。もちろんそのような道があるはずもなく、引き返す道がとても重たく遠く感じました。
そんな私を救ってくれていたのが、ペットの黒柴犬のユリでした。ユリは、緩和ケア病棟の妻の病室にも何回か行きました。入院している時の朝の散歩では、意識して病室から見える道を歩き、「下を通るよ」と連絡を入れたものでした。
そのユリを朝夕散歩に連れていかねばならないという思いが、ある意味規則正しい生活を作ってくれました。
ユリは裏庭で放し飼いにしているのですが、一周忌の数日前からユリは気が狂ったような興奮状態にあり、木戸を破って逃走を図り交通事故にあって大怪我をしました。獣医師に聞くと、飼い主の一周忌に合わせたように死んだり、異常な興奮状態になるペットは多いそうです。
きっと、動物にだけわかる本能的な勘で、妻が帰ってきていることを感じ取っていたのかもしれません。
そしてまた、ユリが生還してきたのは、きっと妻が私がひとりぼっちになることを心配して、生かしてくれたものと思いました。
そのような時の遺族会の立ち上げのお誘いは、自分が進むべき道を示してもらったような思いがしたものです。藁にでもすがる思いでそのことに没頭して行きました。