全国中学生人権作文コンクルールから
「佐賀県優秀作品」・「一般社団法人日本新聞協会会長賞」受賞作品
「生きる権利・死ぬ権利」 唐津市立浜玉中学校 1年 吉原 直さん
「緩和ケア」
私はこの言葉を6年生の春に初めて耳にしました。完治が望めない患者に対して、1日でも長く延命するよりも、その身体的な痛みや精神的な苦しみをできるだけ軽くすることを目的とした看護のことです。
私の祖父は、1年前の6月、紫陽花の花が咲きほこるころ息を引き取りました。病名は「末期のすい臓ガン」で、一昨年の12月に告知を受け、半年間の闘病生活でした。祖父は病状が進んでもなお、入院はせず、祖母と二人で自宅で花や野菜を育てたり、愛犬を可愛がったり、長い間ずっと大切にしてきたものに囲まれながら穏やかに暮らしていました。私の祖母は、何年も前から体が悪く1人では立って歩けません。祖父が亡くなるギリギリまで自宅にいたのは、そんな祖母への気遣いもあったにちがいありません。
祖父の最期は、緩和ケアという場所でした。ガンになるずっと以前から、自分の最期は緩和ケアだと決めていたそうです。
祖父は入院してからわずか1週間で亡くなりました。入所した初日、病院へ持ち込んだアルバムの中から、
「これが一番よか顔ばしとる」
と遺影になる写真を自分で選び、初孫だった私に申し訳なさそうに、
「じいちゃんの葬式の最期のお別れの手紙ば読んでくれんね」
と頼んできたのです。私はまだその時、祖父が亡くなるとは全然思ってもみなかったので、よく理解できずにうなずくだけでした。
それから毎日、学校から帰ると欠かさず祖父の病院にかけつけました。祖父は、
「おう、よく来てくれたね。学校は楽しかね」
と言って、ニコニコ笑っていました。私は、そんないつもと変わらない祖父の笑顔を見るのが好きでした。でもそれから、1日ごとに祖父の様子は変わっていきました。モルヒネという強い痛み止めの薬を使っていた祖父は、次第に日にちや曜日、場所、兄弟や家族、私たち孫のこともわからなくなりました。話もせず、ただぼんやりと過ごす時間が増えました。
その数日後、私が病室に入り、
「おじいちゃん」
とゆっくり大きな声で呼びかけると、いつもの笑顔で手を差し出してくれました。やっぱり私のことを覚えていてくれたんだと思うと、嬉しくもあり、でも胸が張り裂けそうに悲しくもありました。それから3時間もたたないうちに、祖父は亡くなりました。
冷たく固くなっていく祖父の体を祖母、母、おばさん、いとこたちとみんなでさすりながら、祖父を見送りました。母やおばさんたちは泣きながら、でも途中からは全員笑顔でした。痛く苦しい病気と闘っていた祖父がもう苦しまなくていいからだと安心したからです。
祖父が選んだ「緩和ケア」という最期は、点滴や薬をほとんど使わず、心臓マッサージも人工呼吸器も輸血も行わないという方針です。祖父が入院してからも、祖母だけはずっと一人でこの方針に反対していました。病棟の先生、スタッフ、母、おばさんたちは祖母が納得するまで何度も説明や話を合いを重ねたそうです。とにかく延命優先を希望する祖母に対して、母やおばさんたちは、
「緩和ケアを最期の場所に選んだお父さんの意思を尊重してほしい」
と必死になって繰り返し主張したそうです。
祖父が緩和ケアを望んだのには理由があります。以前ガンで亡くなった祖父の兄たちが最期までずっと点滴の管やチューブにつながれていたり、意識も反応もないのにただベットに横たわっているのを目の当たりにしたからです。祖父は、自分の足が動く間は、愛犬と散歩に出かけたり、一輪車いっぱいに野菜を収穫したり、気力がある間は自分で運転して私の発表会に来てくれたり、祖母の通院を手伝ったりしていました。
入院してからも、絶対にトイレは自分の足で向かい、ナースコールを自分では一度も押さず、とにかく我慢強く、自分よりも周りを優先する人でした。そんな祖父だったからこそ、延命を望まなかったのだと思います。自分でできることは最期まで自分の力でがんばりたいという祖父らしい姿です。
私は、祖父の生き方から、人が人として生きる意味を学びました。そして、人が人として死ぬ権利があることを学びました。人が人としてとは、その人の望むことだと思います。祖父のように自分の力でしっかり生き抜くことや、死ぬ場所や死に方を自分で選択し決定することが人権を尊重することにつながるはずです。祖父の意思を尊重し、守ろうと力を尽くしてくれた緩和ケアの方々にも、私は感謝しています。
私も私らしく、精一杯毎日を生きて、祖父のように自分の意思をしっかり持てる人になりたいです。